ミックスドマーシャルアーツ(MMA)は、格闘競技の総合科目テストのような存在です。
ボクシングやレスリングを国語、社会といった個別科目テストとするなら、MMAはまさにそれらの総合的な力を試す総合テスト・スポーツであるといえます。
国語だけを学んで総合科目テストに合格できないように、一つの格闘競技のエキスパートであってもMMAでは能力を発揮できず、またその逆も然りです。
そこに優劣はありません。そこにはただ、個別と総合との「求められる力の違い」だけがあります。
MMAは新しい格闘競技ですが、同時に武術の源流へ立ち返る視点ももたらします。
長い年月をかけ、武術は競技となり、鋭利な刀のように研ぎ澄まされ洗練されてきました。
しかし、鋭利になると同時に、競技の想定外の状況という側面からの衝撃には弱くなっていきました。
MMAは素晴らしい鋭利な刀たちに側面から衝撃を与え、その力を試す競技です。
それは一見すれば無礼で不躾な行為のように思われますが、その実は逆であり、武術の本来の力を、洗練された現在だからこそ見つめ直せるという意義を持つと感じます。
故に、MMAは他の個別競技への尊敬なくしては成立しないスポーツだとも思います。
湖が複数の川の集合によって生まれるのと同様に、MMAは様々な個別競技の川が集合して生まれる湖のような存在です。
国が違えば川は違い、また競技が、流派が、人が違えば、同様に川は違います。
故にMMAの起源とは複数の川であり、MMAとはその違いを包み込む大きな湖なのです。
それぞれの川が激しくぶつかり合い、結局は一つの湖となる。
その流れを楽しむことが好きで、わたしはMMAを観ています。
MMAは複数の川ですが、ただ一人の指標を上げるとするならブルース・リーでしょう。
ブルースは、自らのルーツである詠春拳に加え、ボクシングや柔道、フェンシングといった世界の武術に触れ、流派に捉われない自分自身の格闘スタイルを模索し続けた人です。
ジークンドーとは、MMAの理念を先駆けた、ブルースの信念そのものです。
ジークンドーの理念は「パーシアリティー(部分性)」「フルウィディティー(流動性)」「エンプティネス(空)」の三段階からなり、それぞれは「直観と本能」「技と知識の蓄積」「洗練と自然体」のプロセスを意味します。
個別競技の一面が洗練された「フルウィディティー」であるとするなら、ブルースが目指した最終段階「エンプティネス」へ至るための一つの指標となるもの、それがMMAです。
多様な凌ぎ合いを経て、唯一無二のスタイルを確立していく…「水になる」ということ。
一人一人の「エンプティネス」へのプロセスこそがMMAであり、誰一人として同じプロセスを辿る選手は存在しません。
MMAとは一人一人が一子相伝。そのプロセスを観ることもまた、わたしの喜びなのです。
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今回はわたしがMMA観ているときの理念というか、ふだん考えてることを書いてます
これもまた自分の考えを整理し、「エンプティネス」になるための道の一つです
いろんな人の「エンプティネス」をもっと観たいな~と、常日頃思っています
それにしても、ブルースめっちゃカッコいいですね~!(いちばん大事)