クロネコMMA図書館🐾

ミックスドマーシャルアーツ(MMA)という格闘スポーツについて、コラムや試合レビューを書いています。

Cage Warriorsを知る。その歴史の変遷と「影の立役者」イアン・ディーンについて。

最近は『Cage Warriors』👑王座遍歴のリニューアルを目指しています~。

歴史のあるプロモーション故なかなか完成に辿り着かないので、今回は息抜きも兼ねてCage Warriorsについてちょっぴり語りたいと思います!

 

 

#1 『Cage Warriors』 歴史の変遷

Cage Warriorsは2代の社長によって運営されてきました。

 

創始者であり初代社長であるドギー・トルーマン

そして、現在も代表を務める第2代社長のグラハム・ボイランです。

 

この2人の社長により、Cage Warriorsは大きく分けて4つの時代に分かれます。

 

第1期 2002年~2004年

Cage Warriorsが始まったのは2002年のロンドン大会でした。

当時からプロモーションの正式名は「Cage Warriors Fighting Championship(CWFC)」でした。実は「FC」が抜けるのはだいぶ後になってからです。

 

当初からワンデイ・トーナメントで各階級の王座を決め、イギリスMMAの大きな前進の一歩となりました。当時の最大のライバル『Cage Rage』も同じ年に始まっていて、2002年とはまさにイギリスMMAが胎動した年でした。

 

Cage Warriorsは当初からヨーロッパを超えた諸外国の選手もチャンピオンシップに挑戦し、なかでもジョージア人のCage Warriorsヘビー級王者テンギス・テドラゼは強い印象を残しました。

UFCでも活躍するアレッシオ・サカラや、日本のCage Forceで活躍したポール・マクヴェイもこの時代から頑張っていた選手ですね~!

 

第2期 2005年~2009年

2005年からCage Warriors(当時はCWFC)は大きな方針転換を行います。

フランチャイズ化することにより各地のチームが大会を開催できるようになったのです。

フランチャイズ化の背景には、当初は比較的に友好関係を築いていた『Cage Rage』との関係が選手の契約を巡って分断されてしまい、それにより当時のイギリスMMAの名チーム「ウルフスレア」の選手が活躍の場を制限されてしまった事情もありました。

「ウルフスレア」の若手であったマイケル・ビスピンや、同じく当時の名チーム「ラフハウス」の新鋭ダン・ハーディーといった、後にUFCで筆頭選手となるイギリスMMA選手たちがこの時代の主役となりました。

圧巻のフィニッシュを連発して有無を言わさずUFCへ参戦した「カウント(伯爵)」ビスピンに対し、CWFCで地道にレベリングを続け、立ち技選手からMMAストライカーへとCWFCで進化していった「アウトロー」ハーディー。2人の非凡さやCWFCのフィーダーリーグ(当初からCWFC運営はこう呼んでいました)として当時からの土台の強さを、改めて実感する時代です。

ただ、ナンバリングでは無い大会が続いたり、どうしても自チームのための地元大会という感は否めないところであり、一部の選手に無理をして貰っていたのも事実でしたね~。

ハーディーと73kg王座を争ったアレシャンドリ・イシドロは、ブラジル人としてこの時代で活躍した才能に溢れるグラップラーとして強く記憶に残っています!

また、日本でもなじみ深いビッグフット・シウヴァやゲガール・ムサシたちも、この時代のCWFCでチャンピオンとなっています✨

 

第3期 2010年~2015年前期

ドギー・トルーマンCWFCを手放し、消滅の危機にあったCWFC

それを購入して新体制CWFCを開始したのが、現在も代表を務めるグラハム・ボイランです。

 

ボイランはアイルランド人であり、CWFCは南北アイルランドウェールズスコットランドというイギリス全域…のみならず周辺ヨーロッパ国で活動を多いに活発化させていくことになりました。

ボイランの故郷アイルランドのダブリン大会は特に大きな盛り上がりをみせ、なかでも2012年末のダブリン大会では、後のUFCライト級チャンピオンのコナー・マグレガーがライト級チャンピオンに戴冠し、同時にミドル級王座決定トーナメントでもクリス・フィールズが代役から劇的に優勝するというアイルランドMMA飛躍の大会となりました。

ヨアンナ・イエンジェイチュク(ポーランド)やジャック・ヘルマンソン(スウェーデンノルウェー)といった後のUFCトップコンテンダー達を筆頭に、スティーヴィー・レイ(スコットランド)やブレット・ジョーンズ(ウェールズ)といったイギリス選手たちも研鑽を積みUFCへと挑戦しました。

また、このボイラン時代の初期の特徴として、ヨルダンを中心として中東での大会「Cage Warriors Fight Night」シリーズが開催されたことが挙げられます。

これはボイランが中東で力のある人達とのコネクションを得たことに所以しており、そのなかには後に『Brave CF』を運営することになるバーレーンのハリド・ビンハマド・アルハリファ王子の姿もありました。

このコネクションは、イギリスやヨーロッパ諸国における中東移民の選手へ光を当てるきっかけの一つになりました。

結果的に中東とのパイプは2015年に切れてしまい、CWFCの経営自体の見直しが図られることになりましたが…この時代のCWFCの中東開拓が、現在の中東MMAの発展に貢献した一歩であった可能性は大いにあると感じています!

 

第4期 2015年後期~現在

2015年前期、ボイラン代表はCage Warriorsの代表を退くことを発表しました。

しかし、同年のうちに再びCage Warriorsの所有権を獲得し、現在に続くイギリス&ヨーロッパMMAフィーダーリーグとして活動を再開していくことになります。

2016年には当時まだ設立3年目の「UFCファイトパス」とヨーロッパMMAとしては先駆的なライブ放送契約を結び、これが現在のCWFC飛躍の大きな一歩となりました。

この時代はUFCでのコナー・マグレガーの知名度向上によりイギリスでMMAが広く認知され、ヨーロッパ全域にMMAの新たな才能たちが生まれる大きな節目の時代でもありました。CWFCUFCファイトパス契約も、そのような背景に後押しをうけたのかな?と感じますね~。

2017年からは正式に「FC」がとれ、「Cage Warriors」として明確な再スタートを切りました。

2020年にはCOVID-19感染症対策により大会が全て中止となり…しかし、同年の後期には3夜連続で大会を開催する「トリロジー」シリーズで活動を再開しました。更に、イギリス政府から正式に開催を認可されたことで、Cage Warriorsは公認スポーツとして大きな前進をみせました!

現在はヨーロッパを飛び出し、アメリカ合衆国カリフォルニア州でも大会を開催するなど、Cage Warriorsは模索を続けています。

 

#2 Cage Warriors影の立役者…イアン・ディーン

ドギー・トルーマンやグラハム・ボイランは勿論ですが、Cage Warriorsを語る上で欠かせない人が、マッチメイカーで広報担当者でもあるイアン・ディーンです。

ディーンは2002年にCWFCが生まれた当初から現在までを歩んできた「Cage Warriorsの生き字引」ともいえる人です。

どの時代においても、選手同士が切磋琢磨しあい、成長できる絶妙なカードを常に組んできてくれました。

Cage Warriorsがフィーダーリーグとして非常に優秀な背景には、ディーンという存在が大きく貢献しているといいます。ディーンを「天才」と賞するパディー・ピンブレットを筆頭に、Cage Warriors出身のUFC選手たちからディーンは重要な功労者であると述べられています。

 

"彼ら(Cage Warriors)は、他の多くの組織よりもマッチメイキングに対して少し容赦がありません。
繰り返しになりますが、それは(マッチメイカーの)イアン・ディーンによるものです。
私はCage Warriorsで多くの勝利を収めましたが、(容赦のないマッチメイクのために)敗けもいくつか経験しました。"

"(恣意的で楽な)キャリア作りはありませんでした。

同じく、選手は(プロモーションに)世話をされるのではなく、適切なペース(の試合)に挑戦します。"

"多くの場合、選手は UFCに参戦したとき、すでに十分な準備が整っています。

マグレガーを見れば、彼はUFCに参戦したとき、既にとても冷静なストライカーでした。ビスピンはすでに獰猛なファイターでした。"

by ダン・ハーディ

 

ディーンにとって、MMAのマッチメイキングとは数学の方程式のようなものであるといいます。

多くの選手が名声を欲しますが、そのための実力を育てるため、無理なカードを組まないことをディーンは強く意識されていると感じますね~。

本当に名声を選手に与えてあげる為には、実力差が大きすぎず切磋琢磨し合えるレベリングのマッチメイキングが必要であり…その一番大切な視点をディーンは有している貴重な存在であると感じます!

 

"急ぐことはできません。早すぎてはいけませんし、簡単すぎてもいけません。"

by イアン・ディーン

 

かくいうコナー・マグレガーもその一人。キャリア初期には自分の有り余るパンチ力に振り回されて伸び悩む時代もありました。

Cage Warriorsで切磋琢磨する中で、自分をコントロールし、パンチ力を最大に活かすフットワークを身に着け、UFCに参戦した時は既に研鑽を積み、自己のスタイルを大舞台でも遂行できる冷静なストライカーとしての土台が完成できていました。

若いMMA選手たちが真に夢を掴めるように、ギミーファイト(勝ちを"与えて"あげる試合)を組まない適切なマッチメイクで成長を支えている陰の功労者…それがイアン・ディーンです。

 

"彼らが次代のビッグスターを目指していて、(大舞台で)家族や友人の前で敗けたとき。

ひどく動揺し、(もしマッチメイカーである)あなたの肩で泣いてたら…

あなたなら、彼らに何を言ってあげることができるのですか?

『あなたの夢を犠牲にしてごめんなさい』と言うのですか?

それは、本当に恐ろしい気持ちです。"

by イアン・ディーン

 

イアン・ディーンという名前は、Cage Warriorsの告知がインターネットの掲示板でされていた時代から知っている者からすればなじみ深いものです。

それは、ディーンがCage Warriorsの告知を掲示場やサイトでしていた広報担当者でもあったからです。

20年の時を経て、現在もCage Warriorsの裏方に徹しつつ、実況解説にも参加するなど選手を光らせる努力を続けているディーン。

屋台骨を支えるディーンのような人物がいてこそ、Cage Warriorsは素晴らしい成長のシステムを構築できているのだと改めて感じますね~✨

 

# おわりに

Cage Warriorsの👑王座遍歴リニューアルを進めるなかで、改めて当時を振り返って気付くことがたくさんありましたね~。

纏めらるときに纏めておきたい、振り返られるうちに振り返っておきたい…という気持ちが日に日に増えています。

しかし、無理せず焦らず語っていきたいと思いますね~

素晴らしきCage Warriorsの一端を紹介できていたら嬉しいです😊